アルルの寝室
フィンセント・ファン・ゴッホ 1888年9月 アルル・フランス アムステルダムゴッホ美術館 文:鈴木 徹 朗読:鈴木ふきの
昨夜、フィンセントは夜更けにこの部屋に戻るなり、着替えもせずにそのままベッドに倒れこんだ。 ──、閉め忘れた鎧戸。 アブサンを飲み過ぎた。思わぬ再会だった。赤い帽子のアルジェリア兵の男。三ヶ月前、フォールム広場のカフェで見かけた。その面立ちと制服の取合わせに、インスピレーションを得たフィンセントが、強引にモデルを頼んだ。それを引き受けてくれた男。彼は出来上がった絵を見て、こう言った。 「おう清澄(セレンテ)!まるで濁りのないアルジェリアの空だ。」 馴染みの薄いこの土地、加えてフィンセントを受け入れてくれる人物は、何時でも何処でも少ない。そんな彼が、最も描きたい「人物画」のモチーフを得る。郵便配達夫のルーランと、その家族。 ルーランは時間のやりくりをし、度々フィンセントの前に座った。幸いフィンセントの筆は速い。 「ルーラン、君は郵便屋の帽子を被ったソクラテスだ。」 「ほうほう、そんなに似てるかい。頭はからっぽだけどな。」 ルーランは、長いあごひげを震わせて笑い、フィンセントは、御機嫌でパイプに火を付けた。 「ほう、色をいくつか並べただけなのに、この頬(ほっぺ)には確かに血が通っとるぞ。」 「そんなにいいかい?じゃあこの絵はソクラテスの保証付きだな。」 二人は互いに気が合った。ルーランは、妻や子供たち家族みんなをモデルにと紹介してくれた。 未だ誰も見向きもしない絵に、この二人の無名氏は、心底感嘆している。 いつもは早起きのフィンセントが、まだ眠っている。もう日は昇っている。彼は枕に半面を埋(うず)めたまま動かない。時の動きが鈍くなり、止まりそうだ。 ──、半開きの鎧戸。 ラマルティーヌ広場に面した南向きの窓の隙間から、突然一筋、金色の刃先となった光が刺し込み、西側の壁に突き立った。強いハレーションが起こり、砕けた熱い光の欠片が、フィンセントの顔に落ちた。 「いかん!」 弾けるように飛び起きたフィンセントは、ベッドの端に腰掛けたまま、顔を窓の方に向けた。白い光しか見えない。頭蓋の芯が疼く。 「今日は、ラ・クローの野を葦ペンでデッサンするんだ。僕のデッサンは、習作(エスキース)ではない。デッサンは歴とした一ツの様式(スタイル)だ。ようやくその意味が解って来た。その素朴(ナイーフ)さが好きだ。」 『急げ!』と声がする。フィンセントには耳慣れた声だ。この声にいつも従って来た。焦ってはいない。彼は、よく知っている。 「良い仕事は、地道な努力に依る他は無い。仕事は鈍行の汽車に乗り、命は急行に乗っている。」 太陽は既に、より高くに位置している。 『急げ!』この陽光が言っている。 『そのペン画が描けるのは、今日しかない。』 この一回性が、フィンセントを掻き立てる。彼は棒(バケット)パンの食べ残しをかじりながら、そそくさと支度に取りかかった。